2005年をダニエルの霊をもって始める
エミルダ・ミランダ師

 私たちは新しい年を迎えました。ほとんどすべての人は、私たちの生活するこの時代が歴史の中で持つ割合を感じているのではないでしょうか。
 2005年度は大胆不敵な年と呼べるかもしれません。
 大胆不敵とは、大胆になること、神があたなして欲しいと願う事を行うために、これに対抗するすべてのものに敢然と立ち向かうこと、思い切って大胆になることです。
エステルは大胆不敵でした。
 勇気を出して王の前に立った彼女は、王が金の笏を差し出さなければ死ぬかもしれないことを知っていました。彼女は同胞のために思い切って進み出たのです。
 そうして、彼女は民のとりなし手となりました。
 エステルが大胆不敵な女性であったと同じように、ダニエルは大胆不敵な人でした。
 「あなたはあなたの父祖の神を拝んではならない。」という勅令の言葉を聞いたダニエルは、それが当時の社会からのものであったにも関わらず、いつものように自分の家の窓を開けて彼の神に祈りました。
 誰が作った勅令もしくは法律であっても、ダニエルが自分を召した神を礼拝することを止めることは出来ませんでした。彼は大胆不敵に行動し、その結果、並々ならぬ試練を通ったのでした。
 今は多くのダニエルたちの時です。しかし、それは決してある特定の人を真似ることではなく、このような人の性格と霊を受け取ることを語っています。ヨセフもダニエルも私たちの主イエス・キリストの旧約聖書における「象徴」でした。
 ダニエルを特徴づけ、そして彼のミニストリーを要約する8つの性格があります。
 これらの8つの性格は、これからの年に私たちの人生を特徴づけるものとして必要とされるものです。
  1-彼は恥じない大胆さの内に生きた。(ダニエル1:8b、2:49)
  2-彼は並はずれた基準を持っていた。(ダニエル1:8a、5:17、6:4)
  3-彼はこの世のものではない保護を持っていた。(ダニエル6:22)
  4-彼は妨げられない忍耐力を持っていた。(ダニエル6:10)
  5-彼は汚れない信仰を持っていた。(ダニエル2:16-18、9:3-4、9:17)
  6-彼は並々ならぬ試練を苦しんだ。(ダニエル2:19、6:16)
  7-彼は限りない祝福を受けた。(ダニエル1:17、1:20、2:48)
  8-彼は際限ない影響力を持っていた。(ダニエル1:9、6:2-3)
 これから、性格についてを語っていきましょう。
 神は説明責任なくして権威を与えることはしません。そして人の説明責任は、その性格に見出されるものです。
ダニエルは優れた道徳の人(ダニエル1:8)、高潔な人でした。「高潔」という言葉の主要な意味は卓越した道徳、次に男らしさや勇気を表します。ダニエルは知恵の人で(ダニエル1:17、6:3)、知恵が彼の特徴でした。
 箴言で聖書の語る「知恵」は人を高め、顕著な者とし、人に力と几帳面さ、地位と名声を得させるものです。
ダニエルは実直な人でした(ダニエル6:5)。実直の中心は誠実です。これは決して失敗を犯さない人ということではなく、自ら誠実な者になることを願い、自分の失敗を認めて賠償し、そして和解をもたらすことです。
ダニエルは解決する人(ダニエル6:10)、目的の人、決断の人、そして信念と信仰の人でした。
 ダニエルは成熟した人でした。成熟とは年齢と共に至るものではなく、責任を取ることから始まるものです。
拒んで責任を取らない人はいつまでも未熟です。この時代の人々は成功に対する責任は取りたがります。しかし、まず失敗に対する責任を取ることを望まなければ、成功に対する責任も取れません。
 自分が罪人であることを認めなければ、聖徒であることを告白出来ません。自分の必要を認めなければ、決して解決はありません。
 神はアダムを息子として造りました。神の戒めを破ったアダムは罪を犯しました。
神は息子としてアダムと関わることを願っていました。あなたに息子がいれば、彼が成長して一人前の男になること、つまり責任を取れる者になるよう学ぶことを望むのではないでしょうか? 神がアダムに望んだのは、彼が自分の行動に対する責任を取って、一人前の人間であることを証明することでした。
 「あなたがこのことをしたのですか?」と神に問われたアダムは「女が私にそうさせたのです。」とは言わず「あなたが私に与えた女が・・・」と言いました。そうです、彼は自分の問題を神のせいにしたのです!(創世記3:12)
 今でも世はまだすべての問題を神のせいにしています。しかし、神が問題なのではありません。罪が基本的な問題なのです。
 アダムが園を去らなければならなかった理由は彼が罪を犯したからではなく、彼が自分の行動に対する責任を取ることを拒んだためでした。
 麻薬からのリハビリに関わる人は誰でも知っていますが、麻薬常習者を救出しようとするさいに一つの主要な、基本的な障害があります。
 それは拒否と呼ばれます。人が拒否している限り、彼らは助けられないのです。拒否は単純に、自分自身の行動に対する責任を受け入れることを拒むことです。ダニエルは祈りの人でした。
 彼は深い友情の人でした。彼は知り合いではなく、友人を持っていました。責任約束を果たさなくても知り合いにはなれます。しかし、責任約束を果たさなければ友人は得られません。ダニエルは神に油注がれた人、そして神に信頼する人でした。
 信頼は
真実に対してのみ与えられるものです。
 あなたは嘘つきを信頼しますか? 出来ないでしょう。
 嘘つきを信頼する者は悪魔を信頼する者です。
 それはサタンがすべての偽り者の父だからです。
 なぜ、あなたは自分の命、魂、思い、体、霊、持てるすべてをもってイエスに信頼することが出来るのでしょうか? それは、イエスが真実(真理)だからです! 真理の内を歩き、とどまり続けるなら、あなたが敗北することは決してありません。
 真理は敗北の灰の中からでも常に立ち上がるからです。真理は世に来られました。
 人々は真理を十字架につけ墓に葬りました。
 しかし真理は3日目によみがえり、そして今も生きています。
 これからの年、ダニエルの霊を持つということは、すなわち忠実な人になるということです。第二テモテ2:1-2を見てみましょう。
 「そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。
 多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさ   い。」神が才能ではなく、性格にゆだねていることに注目して下さい。忠実は性格の礎石です。
神は忠実な者にゆだね、そして神が彼らを可能な者にするのです。
 教会では頻繁に才能ある人を見いだそうとします。
 そして、才能ある人を見いだすと、それから彼らを忠実な者にしようとするのです。
 しかし結果は失望の涙にくれるばかりです。ヘブル人への手紙に何とあるかを見てみましょう。
 ヘブル3:1-3「そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。
 私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。
 モーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実なのです。家よりも、家を建てる者が大きな栄誉を持つのと同様に、イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしいとされました。」ここに2つのポイントがあります。第一に、モーセはキリストの家で忠実な者でした。第二に、イエスは父の家で忠実なものでした。
 両者とも互いの家において忠実でした。ではルカでイエスが何と言っているかを見てみましょう。
 ルカ16:9-10「そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。
 小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」
 説明責任は忠実な人の内にあることを覚えていて下さい。
 不忠実な人は説明責任を果たしません。
 私たちは二流人間の時代に生きています。二流人間は権威を欲しても、説明責任は果たそうとしません。また彼らは決断することをしません。
 それは決断が正しくなかった場合の説明責任を取りたくないからです。
 「決断して、もしそれが間違っていたら責められてしまいます。」と彼らは言います。
 このような人々は何にも加わろうとしません。彼らは教会のメンバーにもなりたくありません。
 神の勝利ある軍隊にも加わりたくありません。彼らは何もしたくないのです。
 そうすれば、間違いが起こった場合に何の責任も取らずにすむからです。
 聖書が忠実について何と言っているかを見るために、ルカ16:11-12を見てみましょう。
 「ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。
 また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。」
 忠実には3つの要素があります。不変性、忠誠、そして服従です。服従と大きく関わるものは何でしょうか? 私は食品店に行けばレジの列に並びます。
 私は列に並ぶことに服従します。私は常に何かに服従しなくてはならないのです。
 私が夫に服従することで、夫は私に共同の相続人として接し、そして私は神が望む女性となれるのです。
 服従は呪いではなく、忠実と関連して行われるならば祝福なのです。
 主は父の家に忠実でした。モーセもイエスも不変、すなわち勤勉でした。
 彼らは忠誠でした。
 イエスは決して御父に対してつぶやかず、モーセも決して神につぶやきませんでした。人々がモーセにつぶやいても、彼は彼らに対してつぶやきませんでした。
 つぶやきはイスラエルの子たちをカナンに入らせなかった5つの罪の内の一つで、そしてこれは今の人々に対しても同じです。
 御国の原則はただ日曜日の朝に礼拝するだけではなく、1日24時間、週7日、1年52週、そしてあなたの人生すべてを礼拝して生きることなのです。