05.3.20  エミルダ・ミランダ師  あなたの内の分裂(暴動)を警戒する

 ガラテヤ 5:19-21
 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、
魔術、敵意、争い、  そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、
そういった類のものです。前にもあらかじ
 め言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことを
している者たちが神
 の国を相続することはありません。

 興味深いとは思いませんか? 私たちは姦淫、魔術、敵意、ねたみ、殺人、遊興、
酩酊などといったものに関する説教はするのですが、この中で私たちがあまり考察し
ていない肉の行いがあるのです。 私たちはこれを素通りしてしまいますが、「分裂」
という言葉に注目してみましょう。
 分裂(暴動)とは肉の行いであり、これは魔術、殺人、酩酊、姦淫、不品行と同じよ
うに分類されています。分裂(暴動)は「制定されている権威を倒そうと、これに害を
もたらすこと」と定義されます。分裂(暴動)とはある国の市民らが政府を倒そうとし
てその政府の権威に害をもたらそうとすることであり、これは犯罪行為、暴動的な行
為です。腐敗した政府や独裁的な政府があって、そのトップが変わろうとはしない場
合に下からの革命として暴動が起こりますが、これはアメリカや多くの国においては
犯罪行為です。しかし、分裂(暴動)は肉の行いです。教会において、私たちは他の事
については改宗していない者たちに対すると同様に教会と教会の人々に当てはめます
が、しかし分裂(暴動)については語っていないようです。
 では分裂とは何でしょうか? たとえば家庭における分裂とはどのようなものでしょ
うか? 家庭における分裂とは、たとえば車で夜遅く家に帰ってきた息子を父親が30
日間の外出禁止にしました。1週間後、息子は母親のもとに行って車を運転させてく
れるように求めました。母親は父親が息子に言ったことを知っていながら、息子に車
を運転させてしまいました。彼女は夫の権威に害をもたらしました。これが分裂です。
 職場における分裂とはどのようなものでしょうか? 職場における分裂とは、人々
が水飲み場やコピー機、木材のそばに立って上司の噂話ゆ不平、批判を言い、そして
その上司が解雇されて彼らの内の誰かがその地位につくことを狙って仕事を放棄しま
す。これが分裂です。
 コラはモーセに対する分裂(暴動)を起こしました。民数記16:1-33。アブシャロム
は彼の父親に対する分裂(暴動)を起こしました。2サムエル15:1-12。
 では、教会における分裂(暴動)とは何でしょう? 教会における分裂(暴動)とは、
人々がミニストリーに対する敬意を失い、そして牧師を解雇することを願うことです。
分裂(暴動)とは、副牧師が主任牧師の権威に害をもたらしたり、聖歌隊の指揮者が牧
師が彼の望むことをしてはくれないからという理由で主任牧師がいない時に聖歌隊に
主任牧師の批判を聞かせたりすることです。これにより、聖歌隊の中に分裂(暴動)の
霊を造り、牧師の権威に害をもたらして彼を除こうとするのです。
 分裂(暴動)のもう一つの例です。ある牧師が神から信仰によって、教会が借りるこ
となく、そして重荷にならないように、新しい教会の建物を建てることを求められて
いると信じています。牧師は信仰によって建てることを決意し、そして教会の全員が
同意しました。しかし時が経つと共に経済的な圧迫が起こり始めると、彼らは捧げ続
けなくてはならないことでつぶやき、不平を言いだし、陰口を言い、牧師のあらさが
しをして、経済的苦悩から牧師が去って行くようにと什一を控えたりします。これが
分裂(暴動)です。
 分裂(暴動)とは、献金が集められるさいに、献金を集めている人が気に入らないか
らという理由で、捧げるためにあなたの手にあるはずの献金を差し控えることです。
また福音のために神に捧げることが祝福であることを知っていながら捧げることをせ
ず、そしてミニストリーについての批判、つぶやき、不平を言い出します。これは分
裂(暴動)の中にいます。分裂のゆえにバラバラに引き裂かれている教会があります。
私たちはこの分裂に打ち勝ち、忠誠と服従を持ち続け、そして教会を教会とならせる
ためにも、ダニエルの霊を奮い立たせなくてはなりません。
分裂は呪いをもたらす
 分裂の霊を持っているミニスターがもといた教会を去って別の教会を始める時にど
のような事が起こるでしょうか? 結果として、神の呪いがその教会にやって来ます。
この霊を招く時、あなたは呪いを招いてしまうのです。分裂の解決は服従です。ある
メンバーはミニスターのすべてが気に入らないかもしれません。しかし、神は私たち
をあるものを好きになるようにと呼んでいるのではありません。神は私たちが神を愛
し、神の教会を愛し、神にある兄弟たちを愛し、そして神の道を愛するようにと命じ
ています。私は神のなさる方法すべてが好きなわけではありませんが、しかしこれら
を愛します。それは私が神に服従しているからです。
 あなたが敬虔な牧師に、敬虔なミニストリーに服従する時、その服従が人の心にあ
る肉の行いである分裂の霊からあなたを守ります。これまでのカリスマ運動には、明
らかな欠点がありました。十字架を省いて、悔い改めを軽視したことです。その結果、
豊かな命だけを求め、自分に死ぬという最初の体験をすることなく神の御国に、キリ
ストの体の中に入ってくる人々が出てきてしまいました。
 イエスは妥協するようにとの誘惑を受けました。カルバリに向かうイエスのもとに
悪魔が来て言いました「私はあなたが何処へ行くかを知っている。あなたが何をする
かも知っている。しかし見なさい。私がすることをあなたに告げよう。私はあなたに
この世の王国すべてを与えよう。あなたは十字架に行く必要などない。あなたはカル
バリに行く必要などない。私がこれらをすべてあなたに与えよう、ただあなたがひれ
伏して私を拝むなら。」
 この誘惑は、御国におけるあなたの価値に従って誘惑されるということを私たちに
教えています。サタンはイエスが価値あることを知っていました。ですから誘惑がし
たのです。イエスは悪魔にこう応答しました「聖書にこう書いてある、・・・」。そ
して悪魔を叱りつけ、カルバリに向かい、十字架にかかりました。私たちすべての犠
牲として自分の命を捧げたイエスは、世の王国だけではなく、天の御国、神の御国を
も受け継ぎ、そして私たちがカルバリの十字架で流された彼の血によって御国に入れ
るようにして下さいました。

十字架なくして栄冠なし
 イエスはこの地上での王国を持つことも出来たでしょう。しかし、彼は十字架に向
かいました。それは、彼の王国が地上のものではなく、永遠の王国であることを知っ
ていたからです。そして彼は私たちにある原則を与えて下さいました。それは、十字
架に行かなければ冠を戴く権利はないという原則です。ヨハネ10:10でイエスは「わ
たしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」と言いました。
すべての者は豊かな命を求めます。しかし、イエスは「わたしと福音とのためにいの
ちを失う者はそれを救うのです。」とも言いました(マルコ8:35)。すべての者は自分
の命、豊かさ、成功、祝福を得ようとしますが、しかし死ぬことを願う者は一人もい
ません。しかし、イエスは「死ねば、生きる」と言っています。この原則はとても単
純です。十字架なくして栄冠はないのです。
 私たちはすべてをイエスの足下に置いて泣いて言わなくてはなりません、「イエス
様、私が持てるものを喜んで取り去り、あなたの足下に置きます。」と。あなたはこ
のように言うことが出来ますか? 「主よ、すべてをお受け下さい。私はすべてをあな
たにささげます。」あなたが死ぬ時、神があなたを引き上げて下さいます。自分を高
くする者は低くされ、自分を低くする者は高められます。ある人がひれ伏して悔い改
め、「神様、私を赦して下さい」と言いました。それが彼の人生における最も偉大な
瞬間でした。それから、彼は立ち上がって世界的なミニスターになりました。しかし
これは結果であって、原因ではありません。彼の偉大さは、彼が喜んで自らを低くし
た時に表され、神が彼を引き上げて下さったのです。もし私たちが自分を低くするこ
とをしなければ、神が私たちを低くします。教会が高ぶり、横柄になり、わがままに
なるなら、神が私たちを低くなさるのです。
 私たちはへりくだらなければなりません。そして再び神に依存し、すべてを喜んで
神のもとに投げ出し、「イエス様、私はここにおります。あなたの栄光のために用い
て下さい。」と言わなくてはなりません。私たちがまず喜んで手放すことをしなけれ
ば、イエスは与えることはしません。しかし、私たちが喜んで手放すなら、彼は私た
ちに与えて下さるのです。そうして初めて、私たちは来るべき十年を忠実、大胆なダ
ニエルの霊をもって迎えることが出来るのです。