05.4.10主の御手 イザヤ 59:1
見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないの
ではない。
神はあなたを助け、問題の中からあなたを救い出す準備が出来ていて、そしてそう
することを願っています。神の御手によって、あなたは完全な勝利と解放を体験する
ことが出来ます。
聖書では主の御手があるポイントを例証するために用いられています。たとえば、
旧約の預言者たちは「主の御手がその上にあって、彼らは預言した。」と言っていま
すが、実際には神の御霊が彼らの上にあって預言させたということを言わんとしてい
ます。
聖書から「主の御手」の様々な局面を見ていきましょう。創世記1:26-27、詩
篇102:25。これらの御言葉は、神が創造の手を持っていることを教えています。天と
地とそこにあるすべてのものは主の御手によって産み出されたものです。けれども、
神のもっとも偉大な創造、その創造の頂点は人間でした。
私たちは神が天と地を創造されたことを知っています。しかし、神のこの創造の御
手は私たちにミニストリーするためにも伸ばされるのです。人々が奇蹟を受ける時、
私たちは神の創造の御手を見ることが出来ます。肉体の一部が失われている人々に主
が創造の奇蹟を行う時、彼らの体は通常に、適切に機能し始めるのです。
続いて、神の解放の御手を見てみましょう。詩篇91:1-8。8節に「あなたはただ、
それを目にし、悪者への報いを見るだけである。」とあります。あなたがいと高き方
の隠れ場に宿るなら、5節と6節で描写されている災難、疫病に会うことはないのです。
なぜでしょう? それは主が私たちの解放主だからです。詩篇91:9-15。
神は解放の御手を持っています。神は私たちを敵の罠から解放します。誰でも一度
は神の御手によって解放された経験があるでしょう。神の力によって奇跡的に解放さ
れた人々の証しを聞くと、彼らがいと高き方の隠れ場に宿り、そして解放され、安全
に守られたのであることが分かります。神は解放主です! 神はすべての問題から私
たちを解放して下さいます。私たちは解放の中にある神の御手を認め、そして神が問
題の中から私たちを解放して下さると信じなくてはなりません。
イザヤ26:3。神は私たちを支えて下さいます。人生の嵐のただ中にある私たちを神
は平安の内に保たれます。神に信頼して神に依り頼むことを学べば、私たちの思いと
心には平安がもたらされます。このような私たちを見てまわりの人々はこう言うかも
しれません、「プレッシャーのために彼らの思いはおかしくなったに違いない。この
ような環境であのような平静や平安を持つことなど出来ないはずだ。」と。たとえま
わりの人々が問題と葛藤し、その環境のために苛立っていても、神に信頼する私たち
は床に入って休むことが出来るのです。神の守りの御手に信頼する者は、嵐のただ中
でも平安を持つことが出来ます。神の守りの御手は問題の中にある私たちを助け出し
てくれるのです。
イザヤ41:10-13。「人に(助けの)手を貸す」という表現があります。人の助けを必
要とする時には「手を貸してもらえませんか?」と言います。たとえばピアノを動か
したい時、私は人に「手を貸してもらえませんか?」と頼みます。私自身ではピアノ
を動かすこが出来ないため、誰かの助けを必要とするのです。しかし、助けが必要だ
からといって、ピアノを動かすのを誰かが助けてくれるだろうとただ期待するだけで
はありません。私は助けを求めなくてはなりません。けれども多くの場合、私たちは
神の助けを求めずに、問題の中にいる時にはいつでも神が助けの御手を与えるはずだ
と期待するのです。しかし、聖書にはこうあります、「・・・あなたがたのものにな
らないのは、あなたがたが願わないからです。」(ヤコブ4:2)。
問題の中で主の助けの御手を必要とするのなら、「主よ、あなたの御手を必要とし
ています。」と言うだけでいいのです。「それはいくら何でも簡単すぎる」と言う人
もいるかもしれません。確かに、これはとびきり上等の祈りではないかもしれません。
しかし、私たちが神に届くためにとびきり上等の祈りが必要ではありません。私たち
の祈りが良い結果を見るためには、心から祈らなくてはなりません。私たちがどのよ
うに語るかではなく、神が助ける御手を持っていることを理解することが重要です。
けれども、私たちが神に求めなければ、神は私たちのためにミニストリーすることは
出来ません。
神は私たちを思いのままに自分で決断することの出来る自由な道徳代理人として創
造しました。神は問題の中にいる私たちを助けたいと願いながらも、私たちが神の助
けを求めなければ、神が私たちを助ける方法は限られてしまいます。私たちが十代だっ
た頃、そこで体験した問題を回避させる、私たちの両親からの助言を得られたかもし
れません。しかし、多くの場合、私たちが彼らの助言を求めなかったゆえに、彼らは
その助言や援助を差し出すことが出来ませんでした。私たちが彼らの助けを求めなけ
れば、彼らの「助けの手」は活動しないのです。
私たちの天の父も同様です。問題の中で神はあなたと共にいます。神はあなたを問
題の中から助け出す準備が出来ていて、そうすることを願っています。しかし、私た
ちが神の助けを求めなければ、神の助けの手は活動しません。ここで重要なのは祈り
の時間や形式ではなく、あなたの親友である天の父に語るとのだという理解です。こ
れは疑いに満ちた祈りではなく、信仰を伴う祈りです。祈りは物乞いのように求める
ことではありません。2テモテ1:12、「そのために、私はこのような苦しみにも会っ
ています。しかし、私はそれを恥とは思っていません。というのは、私は、自分の信
じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のため
に守ってくださることができると確信しているからです。」
神の支えの手も助けの手もすでに備えられています。しかし、私たちがそれを活動
させなくてはなりません。神の助けを求めることによって、ミニストリーしてもらう
必要があるのです。
神はまた繁栄の御手を持っています。詩篇1:3、「その人は、水路のそばに植わっ
た木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄え
る。」多くのクリスチャンは神の祝福を求めて、「主よ、私を祝福して下さい。私は
これが、あれが必要です。」と祈ります。しかし、祈った後に彼らはただ座り、何も
しません。これは信仰の生活とは言えません。詩篇1:3には「・・・その人は、何を
しても栄える。」とあります。ただ座って飲んだりしている者を栄えさせるとは言っ
ていません。主は彼らの飲み物を増やすかもしれません。なぜなら、神は彼らが手に
するものを栄えさせると言っているからです。これは彼らの手に置かれるすべてにつ
いて言えることなのです! 主に祝福されたいのなら、あなたの手に何かを置き始め
なくてはなりません。このように語るクリスチャンがいます、「主よ、私はミニスト
リーしたいのです。私にミニストリーを与えて下さい。」そう祈った後、彼らは座り、
そして神が彼らにミニストリーを与えるのをただ待っています。神があなたにミニス
トリーを与えるまで座って待つのなら、何も起こりはしません。あなたは何か(教会
でボランティアで働くなど)を行い始めなくてはなりません。そうすれば神はあなた
を祝福し、あなたを引き上げて下さいます。家でただ祈っているだけでは仕事は得ら
れません。出ていって仕事を探すのです。そうすれば神はあなたを祝福して下さいま
す。
ヨシュア1:8、「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさ
まなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためであ
る。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。」
ここで聖書は私たちの道を栄えさせる方法を教えています。
(1)神の言葉を学び、神の言葉が語ることを行うことによって。
多くのクリスチャンは御言葉を信じて告白することで、神の言葉が語ることを行っ
ていると主張します。しかし、そうではありません。彼らはただ神の言葉が語ってい
ることの半分しか行っていません。聖書にこうあります、「さらに、こう言う人もあ
るでしょう。『あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないの
ないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあな
たに見せてあげます。」(ヤコブ2:18)。あなたが繁栄を願うのなら、あなたの信仰に
加えてそれに相当する行い、もしくは働きを持たなくてはなりません。こうしてあな
たは神の繁栄の手をあなたのために行動させることが出来ます。多くの場合、神は食
べ物をお皿に載せる父親のように供給してくれるのですが、私たちがそれを望まない
のです。これは神のせいではありません。これは私たち自身のせいです。神の御手は
決して短くはなく、あなたを解放し、あなたを保護し、そしてあなたの必要をすべて
満たして下さいます。あなたは神の言葉に対する信仰を通して、神の御手を活動させ
なくてはなりません。
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