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05.4.17 エミルダ・ミランダ師 教会における聖霊
神は教会を誕生させた時、その上に聖霊を注がれました。神は教会に聖霊のバプテ
スマを与え、聖霊で満たし、そして聖霊をもって油注がれました。そして、神の御霊
のある所には必ず明確な照明と証拠があります。もし、これらの証拠が見られなけれ
ば、そこに聖霊はいません。現代の教会はこれらの証拠を示しているでしょうか?
聖霊の力によって動いているでしょうか? また、あなた自身の生活でもこれらの証
拠は示されているでしょうか? あなたは御霊に満たされて生活し、歩んでいますか?
御霊が来られる時の臨在の証拠として、預言的な教えがあることをヨエルは預言し
ました。彼はこのことを年老いた信者が霊的な夢を見、そして若者たちは幻を受ける
という、興奮すべき時として描写しました。ヨエル2:28。神の民は素晴らしい解放を
体験し、そして魂の大収穫がこれに続きます。預言者イザヤも聖霊が民に臨む時に起
こる事を描写しています。「しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が
果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。」イザヤ32:15。
イザヤは言っています、「聖霊が来られると、かつての不毛の荒野は収穫ある畑と
なり、死のあぜ道が突然実をあふれさせる。これは一時的な収穫ではなく、果樹園は
森にまで成長し、そしてあなたは年ごとに森から刈り取っていつまでも豊かさを築く
。」またイザヤは加えてこう言っています、「公正は荒野に宿り、義は果樹園に住む
。」イザヤ32:16。預言者によれば、聖霊はご自身と共に罪に対する裁きのメッセー
ジをももたらすということです。このメッセージは民の内に正義をもたらします。こ
の時、牧師のメッセージは変わります。牧師はもはや死んだ、乾いたメッセージでは
なく、神の純粋な御言葉を説教し、そしてこのようなメッセージが炎のごとく罪の自
覚をもたらすのです。まどろむ者たちも自覚してこう言います、「ここには聖霊の油
注ぎがある。バックスライドしている友人たちをここに導こう。そうすれば御霊が彼
らの心に語って下さるはずだ。」
聖霊はいつでも講壇からその働きを始めます。裁きが神の家から始まるということ
は、主の働きが彼の羊飼いたちから始められるということです。神は愛をもって彼ら
を取り扱い、すべての偶像、肉の欲、神の知識に逆らわせる自己の基準といったもの
を自覚させます。罪、義、裁きを自覚させる、これがまさしく御霊の働きです。しか
し、イザヤは聖霊の注ぎが継続するものであることを言っています。クリスチャン社
会学者らの研究によると、近年起こったリバイバルは平均すると5年続いた後、多く
の混乱と不一致を残して去っていったということです。リバイバルが起こっていると
言われた多くの教会が、数年で御霊の痕跡さえ残さなくなっています。これらの教会
は死んだ、乾いた、空しい教会です。かつては1000人もの人が集っていた神の家が今
ではわずか50人が出席する墓のようになっています。しかしその一方で、50年前に御
霊が注がれ、そして今もなお神が大いなる働きを続けておられる教会もあります。こ
れが、イザヤが描写している御霊の働きです。
聖霊が来られて、まず最初に行う働きは教会の掃除です。神の御霊の流れを妨げる
ものは何でも掃除します。これは一人一人の掃除を意味します。全ての肉は掃き出さ
れ、噂話をしたり、敬虔な者たちに対する苦い舌を持つ者たちは暴かれます。嘘をつ
いたり、他の者たちを偽って責める者たちは孤立し、立たされ、そして真実に向かわ
せられます。争いを起こす者たちは、いずれは自分が作った暗い雲の下を歩むことに
なります。これらはすべて、御霊が来られたペンテコステの時に起こりました。ペテ
ロが御霊の油注ぎをもって説教した時、人々は心刺され叫びました、「私たちは救わ
れるためには何をしたら良いのでしょうか?」そして何千人もの人がその日キリスト
のもとにやって来ました。使徒行伝2:37-41。彼らが罪を自覚するのに何かしらの策
略や専門的なエンターテイメントは必要ありませんでした。彼らは自分の罪を認識し、
そしてこれから自由になることを願ったのです。そして、自らの罪を直視しない者た
ちは暴かれました。アナニヤ、サッピラ夫婦は自らの欺きを死をもって支払うことに
なりました。使徒行伝5:1-11。死んだ、乾いた教会でうまく罪を隠し通せても、聖霊
の臨在がある教会ではそうすることは出来ないのです。
聖霊はキリストの平安の管理者でもあります。彼は講壇と会衆の両方に平安を分け
与えます。しかしながら、正義なくして平安はあり得ません。イザヤは続けて預言し
ています、「義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。わたし
の民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む。」イザヤ32:17-18。
正義があるところに平安はやって来ます。聖霊はすべての不安、心の乱れ、そして自
責の念を掃き出しておられます。思いに平安があれば、家庭の平安、神の家における
平安がやって来ます。神の民がキリストの平安を持つなら、その平安から容易に動か
されることはありません。「雹が降ってあの森を倒し、あの町は全く卑しめられる。
ああ、幸いなことよ。すべての水のほとりに種を蒔き、牛とろばとを放し飼いするあ
なたがたは。」イザヤ32:19-20。
聖霊についてのイザヤの預言は、ウジヤ王の統治下にあったイスラエルに対して向
けられていました。けれども、これは今日の神の民にも応用されるものです。これは
二重預言として知られています。すべての世代で聖霊の注ぎが必要だということです。
そして今日の教会は、聖霊が達成したいと願っているものと比べれば、まだ何も見て
いないも同然だと私は思います。
聖霊が取り去られた時に起こること
イザヤは聖霊が取り去られた後のひどい状況を描写しています。イザヤ32:10-13。
「うぬぼれている女たちよ。一年と少しの日がたつと、あなたがたはわななく。ぶど
うの収穫がなくなり、その取り入れもできなくなるからだ。のんきな女たちよ。おの
のけ。うぬぼれている女たちよ。わななけ。着物を脱ぎ、裸になり、腰に荒布をまと
え。胸を打って嘆け。麗しい畑、実りの多いぶどうの木のために。いばらやおどろの
生い茂るわたしの民の土地のために。そして、すべての楽しい家々、おごる都のため
に。」これらの御言葉は聖霊が臨在しない、あるいは聖霊が取り去られた時のことを
語っています。その時、あなたの人生にはもはや実りはなく、あなたの家族、教会、
人間関係は霊的に沈滞してしまいます。目覚めましょう。あなたは聖霊を取り戻す必
要があります。
ここでイザヤが描写しているいばらとおどろとは何でしょうか? これらは空しさ、
乾いた状態、失望を表します。このような状態はしばしば荒廃を起こす聖くない集い
の形態でやって来ます。これらのいばらは、おきてに従わず、訓練されておらず、混
乱をまき起こし続けます。彼らは自分の教会に仕えるすべての牧師を迫害し、悩ませ、
そして噂を広げてきました。彼らは、ミニスターは貧しく、奴隷のように労働すべき
だと考えています。そして最後には、彼らはすべての新しい改心者らを枯れさせてし
まいます。教会は彼らの絶え間ない妨害ゆえに小さいままで、成長出来ません。
結果として、多くの牧師たちが牧師を止めようとしています。彼らは自らのミニス
トリーの実を何も見ることがなく、疲れ、やつれきって何もすることが出来なくなっ
ています。彼らの妻たちは彼らの落胆と心を失われている状態を見て、彼らを励ます
つもりでこう言います、「あなた、お願いだから牧師を止めてちょうだい。このよう
なプレッシャーを負う必要はないわ。世の仕事の方がまだましよ。」
すでに世界中で毎日何十という教会が門戸を閉じています。イギリスでは去年、12
の大きな教会建物が汚されています。これらの建物は良いものには使われていません。
あるものは売却されてナイトクラブになり、あるものはオカルトグループに売却され
てオカルト博物館になっています。この悲劇に貢献したいばらの人々は、エジプトを
出たイスラエルの父祖たちのようです。おきてに従わないこれらの人々は何かとモー
セの権威に対抗し続け、ついには贖われない者となってしまいました。それは彼らの
恥を知らないつぶやきと不平のゆえでした。神はまたイスラエルを警告して次のよう
に言っています、「もしその地の住民をあなたがたの前から追い払わなければ、あな
たがたが残しておく者たちは、あなたがたの目のとげとなり、わき腹のいばらとなり、
彼らはあなたがたの住むその土地であなたがたを悩ますようになる。」民数記33:55。
真実を言えば、あなたにはこのような人々を変えることは出来ません。イスラエル
に起こったように、彼らも絶望と混乱の荒野で生活し、そして死ぬでしょう。彼らの
心は聖霊に完全に抵抗してしまうまでに、ひたすら頑なになっていくのです。今日、
イエス・キリストの教会は家の掃除が必要です。しかし、説教者や伝道者に家を掃除
する力はありません。これはカリスマや力、能力で出来るものではありません。人が
作った戦略やマニュアル本のシリーズ、または死んだ会衆を動機づけさせる方法といっ
たものは、あてになりません。これらは預言者が「人の手を信頼して、エジプトに助
けを求めに行くこと。」と呼んだのに等しいのです。
神の家の掃除出来るのは聖霊のみです。そして聖霊が来られる時、聖霊は上から下、
講壇から会衆席へと働かれます。教会がどれほど大きいとか、何千人いるとかは関係
ありません。教会が聖霊の義で満たされていなければ、講壇に御霊に満たされたミニ
スターがいなければ、罪が暴かれず放置されているのなら、悔い改めの祭壇がないの
なら、それは空しい教会、死んだ家なのです。
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