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2005年5月29日
セル教会メッセージ
(エミルダ・ミランダ師)
主の到来
ずっと以前、教会には次のように叫ぶ声が響いていました、「夜の盗人のようにイ
エスは来られます! あなたが予期しない時に彼はラッパの音と共に、瞬きする間に戻っ
て来られます。いつでも備えていなさい。」この叫び声は絶えず響き渡り、毎週の日
曜の集会で聞かれたものでした。伝道者はみなキリストがまもなく戻って来られると
語って、人々を奮い立たせるメッセージをしていました。このようなメッセージによっ
て、私も常に主が戻られることに期待しつつ生活していました。
しかし、この「イエスは来られる」という叫び声は今日の教会でめったに聞かれな
くなってしまいました。私が最後に主の到来に関するメッセージを聞いたのはいつだっ
たでしょうか? キリストの体を見ると、主がすぐに戻って来られることの期待はわず
かしか見られません。悲しむべきことに、彼の現れを切望し待ち望む義のしもべはわ
ずかしかいないようです。そして実際、多くのクリスチャンの間には、この主題につ
いて新しい考え方が生じてきているのです。それは、「イエスは来られない。私たち
は何年もそのことを聞かされてきた。すべての預言は彼の戻られる前に成就される必
要があるが、成就した預言はわずかだ。なぜ私たちは彼の現れを期待しなければなら
ないのか? すべては以前と変わらないではないか?」といった考えです。
このような考え方に聖書は警告を発しています。ペテロは、終わりの日にあざける
者がやって来て、キリストが戻られるというメッセージをあざけると言いました。
「まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやっ
て来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリ
ストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造
の初めからのままではないか。」(2ペテロ3:3-4)。信じられないことですが、キリス
トが突然戻られることを非常に恐れる者たちは多いのです。「自分自身の人生計画が
終わりを告げ、裁きの日に直面しなければならない。」このように考えることは、彼
らにとって大きな恐怖なのです。真の信者たちがこのように考えるだろうかと、あな
たは思うことでしょう。このような人々は肉欲によって生活しているとペテロは言っ
ています。「自分たちの欲望に従って生活し、」(3:3)。ペテロの発言に注目してみ
ましょう。罪の中にいる者は、このキリストの再臨のメッセージに関わることを嫌う
ことでしょう。イエスが来て裁きを行うというアイディアは、罪人にとって最も恐ろ
しい思考なのです。ですから、彼らは神の前に立って自分の肉欲についての申し開き
をしなくてはならないというアイディアをあざける必要が出てくるのです。
私たちに対してペテロのメッセージは明確です、「キリストの到来を軽視すること
の背後にあるもの、それは神の法をあざけることです。聖書を憎み、十戒をあざけり、
福音を軽蔑しているのです。これが無法、罪の誇示、教会の無力さといったものの背
後にある原因です。あざける者たちは、このような新しいメッセージを説教していま
す、『キリストは来られない。精算の日などない。すべてのことはここ何年も同じま
まだ。あなたは裁きの日を恐れる必要はない。」
ペテロが預言したように、今日もこれらのあざける者たちは存在します。そして彼
らは地上の法律ではなく、神の法をあざけるのです。このことは男女の結婚制度の崩
壊にも見られます。彼らの焦点は制度ではなく、神の言葉なのです。そして、これら
のあざける者たちは高い地位、議会や最高裁判所、大学や学校、そして聖書神学校に
さえいるのです。 この無法の流行のゆえに人々は故意に盲目となっています。あざ
ける者たちは次のように言うでしょう、「すべては規則的に続いている。明日も太陽
は上り、季節もめぐる。これまでに聞いた警告は何一つ起こってはいない。だから何
にも心をかき乱されてはならない。快楽にふけり、自ら楽しむが良い。幸福と思える
事は何でも行え。」このような言葉に私たちは頭を振るばかりです。現代を生きる者
のうち誰が「すべては以前と変わらない」などと言えるのでしょうか? この恐怖の時
代の中、これはあまりにも愚かな発言としか言えません。テロリストたちはニューヨー
クのツインタワーを破壊し、スペインの駅を爆破し、そして中東の人々の首を落とし
ています。
また、かつてのホロコーストのような大量殺戮はもう二度と起こらないと言われて
いたにも関わらず、ルワンダでは70万もの罪のない人々が同国人の手でわずか数ヶ月
の間に殺害されたのです。アフリカ、中国、インド、他の国々でエイズは何百万もの
人々を殺しています。水素爆弾を保有するならず者国家は他の国々を人質にしていま
す。数週間で人の命を奪うSARSやエボラ熱といった死に至らしめる新しい病気が出て
きています。「すべては今まで通りで変わらない!」これは何という故意の無知でしょ
う! すべてふるいにかけられるものは主がふるいにかけていることは、不敬虔な者た
ちにも明確なはずです。そして、これからの近い将来に起ころうとする事は、考える
だけでも実に恐ろしい事なのです。
もちろん、これらの事が起こる時には大きな、見えない力が地上で働いています。
それは人が避けることも無視することも出来ない力、聖霊です。聖霊は地上における
イエスの管理者です。聖霊は義人たちを強め、そして世には罪と義と裁きを悟らせる
ために遣わされました。イエスがなぜまだ来られないかを聖霊は明確に知っています。
それは主が忍耐しておられるからなのです。主は罪人たちに忍耐し、そして人が滅び
ることを願いません。主はそのあわれみのゆえに、堕落しきった罪人が悔い改めるの
を待っておられるのです。ですから、聖霊の使命を軽視することは出来ません。あな
たは聖霊をあざけり、払い退けようとするでしょう。しかし御霊は何度も何度もやっ
て来られ、あなたに罪を自覚させ、キリストの真理を啓示して下さるのです。
あざける者はやって来ます。しかし、聖霊も終わりの日に地上に注がれると御言葉
は言っています。これはペンテコステの日に起こりました。そして時代の終わりに近
づいている今、聖霊は最後の、真夜中の叫び声を発しておられます、「イエスは来ら
れる!」。イスラム教徒もヒンズー教徒も無神論者も、罪人も聖徒も、ユダヤ人も異
邦人も、地上にいるすべての者はこれを聞きます。この真理は国々に宣言されるので
す。
あなたはこう尋ねることでしょう、「あなたが語る主の到来はどのようなものです
か? 秘密の携挙ですか? 患難前の再臨ですか? 患難後の再臨ですか? 、それともイエ
スが最後の時に来られることを言っているのですか? 」あるクリスチャンたちはイエ
スが地上からご自分の民を突然吸い上げると信じます(携挙と呼ぶ)。他の者たちは、
キリストが大患難と呼ばれる期間の途中に来ると教えます。これは7年間に及ぶ、全
世界がこれまで見たことのない恐怖とカオスの期間です。他の者たちは、イエスがこ
の7年の患難時代の最後に来ると信じます。また他にも、キリストはこれらすべての
最後に戻ると教える者たちがいます。
それぞれの主張をする者たちの間には、敬意ある聖書学者たちがいます。けれども、
たった一つ、すべてのクリスチャンが同意することがあります。それはイエスご自身
が語った、「誰もその時を知らない。天使さえも知らない。」ということです。そし
て、キリストを本当に愛する者たちにとって、キリストがいつ再臨するかは重要では
ありません。このようなしもべたちは突然の携挙であろうと患難途中であろうと、い
つでも行く備えがされているからです。彼らにとって、恐ろしい試練と苦しみを耐え
なくてはならないかどうかも重要ではありません。今、彼らを日々導いて下さる同じ
イエスが、あらゆる状況の中でも見守って下さると彼らは信頼しているからです。彼
らはイエスの再臨を絶えず期待して生活しています。ここで、重大な事が一つありま
す。それは、真の信者だと主張する多くの者たちにサタンが植え付けている有毒な思
考です。悪魔は多くの神の民の耳に悪しき偽りを囁いています。「キリストの到来は
遅くなる」。
マタイ24:44-51でイエスは備えることについて、たとえを与えています、「だから、
あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのです
から。主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと
与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来
たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。まことに、あなたが
たに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。ところが、そ
れが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い、その仲間を打ち
たたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、そのしもべの主人は、思い
がけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、その報いを
偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするので
す。」
ここでイエスがしもべ、つまり信者たちについて語っていることに注目して下さい。
一人は忠実なしもべ、もう一人は悪いしもべと呼ばれています。何が後者を神の目に
悪いとさせたのでしようか? イエスによれば、それは彼が「心の中で思」った事のた
めでした(24:48)。しもべはその思考を声には出したり、説教することもありません
でした。しかし、彼はそのことを考えていたのです。彼は「主の帰りは遅い。」とい
う悪魔の嘘に心を売り渡してしまったのです。しもべは「主は来ない」ではなく、
「遅くなる」と考えていたことに注目して下さい。つまり彼は、「イエスは突然に、
あるいは予期せぬ時に来たりはしない。私の時代には戻って来ないだろう。」と考え
ていたのです。この「悪いしもべ」は明らかに、ある信者のタイプであり、彼らはミ
ニストリーの中にいるかもしれません。彼は「人の子は、思いがけない時に来るので
すから」、「目を覚まして」「備えているように」命じられていました(マタ
イ24:44)。しかし、彼はサタンの嘘を受け入れることによって、その注意をゆるめて
しまったのです。
イエスは私たちにこの種の考えがもたらす実を示しています。主の帰りは遅いと確
信したしもべは、正しい生活の必要性が見えなくなります。しもべ仲間との平和を作
ろうとしません。自分の家、職場、教会で一致を保つことの必要性を見なくなります。
彼はしもべ仲間たちを打ち、彼らを責め、恨みを抱き、彼らの評判を落とすことさえ
します。ペテロが言うように、このようなしもべは、自分の肉欲に導かれる生活を送
ります。彼は義の裁きを逃れることが出来ると信じて悪しき生活にふけり、2つの世
界で生きようとするのです。
ある人々は、パウロは主の到来が近いと説教して人々を刺激してはならないと警告
したと主張します。2テサロニケ2:1-2でパウロは次のように書いています、「さて兄
弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもと
に集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。霊によってで
も、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によって
でも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失った
り、心を騒がせたりしないでください。」
あざける者たちはこう指摘します、「ほら、ご覧なさい。初代教会でもある者たち
がキリストの到来に関するメッセージをもって信者たちにショックを与えており、そ
こでパウロは彼らに『そのことについて心配してはならない。このことで心を騒がせ
たり、考えたりしてはならない』と告げたのです。」と。しかし、これは原語のギリ
シャ語とは異なります。原語では「主の日がすでに来たと聞いて動揺してはならない
。」となっています。テサロニケの人々を煩わせていたのは、キリストはすでに来た
のに彼らがそれを見逃したという考えだったのです。続く節でパウロは彼らを安心さ
せようとしています、「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。な
ぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日
は来ないからです。」(2:3)。パウロは恐れていた彼らに向けて次のように言ってい
ます、「心配してはならない。なぜなら、まず二つの事が起こらねばならないから。」
では、キリストの再臨に関するパウロの主要な神学は何だったのでしょうか? 私たち
はこれを二つの章句に見ることが出来ます。ローマ13:11-12「あなたがたは、今がど
のような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りか
らさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は
救いが私たちにもっと近づいているからです。夜はふけて、昼が近づきました。です
から、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。」
「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。」ピリ
ピ4:5。パウロは叫んでいます、「目覚めなさい! 今すでに真夜中を過ぎました。主
の到来は近づいています。ですから、あなた自身を奮い立たせなさい。物ぐさになっ
てはいけません。イエスは彼を待ちわびる者たちのために来られます。」
(つづく)
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